生きることの意味を問う~自己犠牲について~

最近、なんかの雑誌でおすすめされていたヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」という本を読んだ。

 

すごくざっくりいうと、ユダヤ精神分析学者である著者がナチス強制収容所での体験をつづった話。もう死ぬ寸前まできて、もはや人間らしい生活もなにもない中で生きることについての話が展開されている。

 

自分自身は哲学者でもないし、強制収容所とはほど遠い世界で生きているが、なんとなくいろいろ考えさせられた。特に感銘を受けたこととして、「犠牲」についてになる。

 

世の中の人はどう思って毎日を生きているのだろうか?

 

個人的に思っていることだが、基本的に人生は退屈だ。と、思っている。生きていくためにはお金が必要で、お金を得るために日々働く、とはいえ、ちょっと働いてお金持ちってわけにはいかず、遊ぶというため以上に生きるためにお金が消費される。

 

そして、平日は仕事で、土日は平日の疲れをとるために休んだり、カラダのメンテナンスのために運動をしにジムにいく。そうすると案外あっという間に1日が終わってしまう。

 

僕自身の場合、仕事は大企業からスタートアップに転職をして、実際それなりの責任を任されていてやりがいはある。ただやりがいの果てに何があるのか?自分でも疑問に思ている節があったりする。

 

ただ、毎日帰りの電車で疲れているサラリーマンにはなりたくないので、いかに仕事を楽しめるかということでやってるので楽しいではあるが、給料も大きく下げて転職をして、よくある事業を創りたいだとかそういったことは前職もできた中で、自分は何のために働いているのか、生きているのか?と思うことがある。

 

さて、少し本の話をすると、強制収容所では日々多くの人が死んでいった。そして、「自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所で破たんした。」とのこと。

 

さすがに収容所みたく生か死かなんて究極の2択ではないけど、仕事をしていく中で、自分の未来を信じることができるかできないかはすごく重要だと思ったわけです。

そして一方、実際、自分の未来を信じている人ってどれくらいいるんだろうとも思ったり。本当かどうかは別として大学生ぐらいの年代が自分の将来に希望がないなんて話を聞いたりしたこともあるけど、その状況下で強制収容所の人が破たんして死を迎えるのと同様に、そう思っている人って仕事をする上で果たして上手くワークしていく、企業の成長の源泉になっていくんだろうかと。

 

今、アジアの新興国は、日本の昔の高度経済成長(よく知らないけど)みたいなかんじで働けば働くだけ豊かになる。そう思って、仕事に大きなモチベーションをもって取り組んでいる。という話を聞くと、破たんしている人が多いかもしれない日本の20代、モチベーション高く働くアジアの新興国勢、その行く末がどうなるか?その展開がとても興味深いなと感じた。

 

さて、一方自分自身にもどって考えてみるにあたり、もう1つ本からの抜粋をすると

「苦しむことも死ぬことも意味のないものではなく、犠牲としてこよなく深い意味に満たされていた」ということ。

 

現状の僕自身としてはこの言葉がすごくフィットするような気がしている。会社のメンバーはいいメンバーだし、みんなの夢が叶えばすごくいいと思う。ただ、そこでの自分の働く意義はなんなんだろうかというと、他者のための自己犠牲なんであろうと思う。それが良いか悪いかは別として。

 

その自己犠牲として働くのがいいのかはわからないけど、そういう視点が増えたのは本を読んでみて良かったと思ったのでした。

 

さて、なんとなく「犠牲」ということが頭に残ったので犠牲をテーマに書いてみたけど、他にも結構考えさせられたのでおいおい書いていこうかなと思いました